「三世 秦蔵六并刻 鉄斎五清図刻」 純錫円式 底銘古錫茶托五客 

9.7 X 1.9 CM  碗置部分3.7CM

各底に「蔵六造」と表側に「鐵斎」の銘あり。

 

本商品「已無共箱 僅剩 茶托五客」

蔵六 作者略歴
初代蔵六が、山城(京都南部)から今日に上がり当時鉄瓶製作の大家であった龍文堂(二代)に
鋳金技術を学びさらに中国(漢・周)の銅器を独自に研究し独立。
孝明天皇の御印、将軍徳川慶喜の黄金印をてがけ明治期には宮内省の命により
明治天皇御璽・大日本国璽(印鑑)を製作し名声を得た。
以降各代研究、模索を続け現代に号・蔵六と鋳金技術を一子相伝で伝えている。
蔵六銅器の特徴は中国の青銅器写しであるが、ところどころに金箔を張った作品が多く見られ、
それは時代経過と共に金箔がはがれている様を表している蔵六独特の意匠であり高く評価されている。

富岡鐵斎略歴
天保7年(1836)1月25日~大正13年(1924)12月31日 89才没。
京都(三条通新町東)法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として生まれる。
明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。
字は無倦。号は鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。
耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、
はじめ富岡家の家学である石門心学を、
15歳頃から大国隆正に国学を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
安政2年(1855) 、18歳の時、女流歌人 大田垣蓮月尼に預けられる。
独学で絵を学び、多くの画法から独自の画風を確立した。
「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、
絵画は余技であると考えていた。
明治維新後の30歳から40代半まで神官を勤める。
「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。
明治7年(1874)、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、
アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。
明治26年(1893)、京都市美術学校教員に就任。
帝室技芸員、帝国美術院会員。

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